多彩な生粋のアーティスト!永遠のスター「フレディ・マーキュリー」を解説!

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人生を謳歌してりゃそのまま映画一本になって人々を魅了するというのは改めてすごいことだと感じます。

「ボヘミアン・ラプソディ」はバンドマンの一生を描いた作品ですが、生き方そのものがドラマティックならそれだけで魅了されるというのも驚きます。

「ボヘミアン・ラプソディ」は世界的なイギリス出身のロックバンド「クイーン」のボーカルであるフレディ。マーキュリーに焦点を当てて描かれた作品です。

1970年のクイーン結成時から1985年のライブエイドという20世紀最大のチャリティコンサート(1億人の飢餓を救うというとんでもないスローガンで動きました)までを描いた作品で、主人公のフレディ・マーキュリーの伝記映画です。

フレディ・マーキュリーという人物については、「性とファッションにすんごい特徴のある人」くらいにしか認識していませんでしたが、その人物像知るにつれて惹き込まれていきました。人生描いただけでカッコいいなんてすげえよ。

今回はポピュラー・ミュージックの歴史において非常に重要なシンガーの紹介をしていきましょう。

フレディ・マーキュリーとは?

1946年9月5日にいまのタンザニアであるザンジルバ島のストーン・タウンで生まれました。

イギリスのボーカリストですが出身がけっこうややこしく、タンザニア連合共和国とは東アフリカにある共和制国家でありイギリスの加盟国です。

タンザニアといってピンとこない方も多いかもしれませんが、ケニアやウガンダ、モザンビークなどと国境を接している国です。それでもピンとこないかもしれませんが。とにかく日本からは遠いとこですね。

このザンジバル島のストーン・タウンという場所で生まれたフレディ。タンザニアもよくわ分からないのにストーン・タウンはどこだという話ですが、ここは10世紀ごろからアラブ人が定住した群島であり、象牙や金、さらには奴隷の輸出など東西交易の拠点として栄えた歴史があります。

ヨーロッパに支配されてきた歴史とアラブの文化の影響を受けた独特な石造りの建造物が立ち並ぶ景観が独特で、街自体が世界遺産としても登録されています。何気にすごいところでフレディは生まれたんですね。

出身が独特なところでありつつ、両親も独特な文化圏に属する人でした。インド生まれの父と母はゾロアスター教というインドの宗教の信者で、両親の出身ということもあってかインドに幼少期に移り住んでいます。そのため子供のころはほとんどをインドで過ごしました。

幼少期からの音楽体験

彼は幼いころから音楽に触れており。7歳でピアノを始めています。有名になってからの彼のピアノ演奏をするシーンはけっこう印象的ですが、子供の頃からの音楽体験はやはり大事だと感じますね。

なんだかんだで両親の影響で小さい頃から音楽に触れていたアーティストも多いですし。ずっとサッカーと喧嘩に明け暮れてて18くらいから音楽に目覚めた偉大なロックスターもいますが。

12歳にはスクールバンドを結成してクリフ・リチャードなどをカバーして演奏しました。このクリフ・リチャードは、ビートルズよりも前の時代のミュージシャンであり、イギリスで成功した人物です。

この頃から音楽的才能に恵まれていたのか、ラジオで聴いた曲をピアノで再現することができたそうです。幼少期から優れたセンスを持ってるのは後のキャリアの成功の前兆を感じずにはいられません。

イギリスへ渡った理由

で、どうしてインドで過ごしていた彼がイギリスに渡ることになるかというと、一旦はインドからザンジバル島に戻って家族と暮らしていたというフレディ。

しかし国で革命が勃発してしまい、大勢の人が亡くなるとんでもないレベルの危険にさらされたため、ザンジバルから逃げてイングランドへとやって来ました。

出身国に隣接する国が妙に紛争の多いヤバい地域っぽいなと思っていたら、フレディの出身国も絶賛レボリューションを開始したので笑えませんね。そのおかげでイギリスにやって来たのはこれはもう縁としかいえません。

イギリススクールでのアート学習

色々と危険極まりない地帯からまさかのイギリスへと移住したフレディ。イングランドのミドルセックス州はフェルサムというところで生活を始めた彼は、アイズルワース工業学校でアートを学び、進学先では芸術のほかにグラフィック・デザインを学んでいます。

彼はキャリアにおいて芸術的なファッションセンスや表現が注目される一つの理由になっていましたが、学業において芸術に親しんでいたのも大きいでしょう。

幼少期から音楽の才能を持っていたり、芸術センスを磨いたりとアーティスティックな一面が色濃く反映された青春期を送っているのは、シンガーとして活躍する際の基盤となっていることは容易に想像できます。

(事実、彼はクイーンで学生時代の技術を生かして衣装を自らデザインしています)

しかし、彼がなぜこれだけ音楽や芸術方面に明るい才能の種を持っていたのか、それには彼の独特な性質も大いに関係していることと思います。

(僕自身彼のマイノリティな性質については肯定的ですから、ネガティブな意味で言うつもりは一切ありません。むしろリスペクトしているので。)

バンド活動を開始したフレディ

彼は学校を卒業してから、古着販売をしながらバンドを組んでいました。

このときにバンドを組んでいたメンバーにはロジャー・テイラーがおり、彼と一緒に古着を売っていました。やたらと経歴がアートやカルチャー一色の生活をしていますねフレディ。

(ちなみにロジャー・テイラーはクイーンのハンサムなドラマーです。ハンサムというか美しいというか、美麗なイケメン!マジで若い頃カッコいいです。歳を重ねてからも別方向にカッコいいですが!)

音楽に関してはずっと関心があったようですが、同時に内気で静かな性格でもあったようです。

内に秘めたエネルギーが芸術や音楽、デザインに反映されているというのもアーティストらしくて好印象ですが、彼の内側に渦巻いていた感情というのは彼本人にしか分からないところがあります。

ちなみに彼がアートスクールでファッションをあれこれ試していたとき、実家の両親からはしこたま不評でボロクソに言われていました。

ぶっとんだ服を着て爪を黒く塗っている姿を見た母親に「近所の人に見られないように早く裏口から入ってきなさい!」と怒鳴られるフレディ。どんな格好してたんだよ。

クイーンでの活動

バンドをいくつか転々とするなかで、フレディは1970年にギタリストのグライアン・メイとロジャーが参加するバンドに加わります。

そしてフレディが「クイーン」というバンド名を新しくつけたのです。このバンド名は、堂々としていて響きが良く、どこでも分かりやすく通用するという理由で付けられました。(案にゲイを意味することを彼自身は承知の上です)

初期のクイーンはフレディ自身がロックバンド「レッド・ツェッペリン」のボーカリストであるロバート・プラントの影響を強く受けた歌唱を披露しています。

また、クイーンでのバンド活動を始めてしばらくは貴公子みたいな美しいドラマーと一緒に古着屋で働きながら歌っていました。

彼流のぶっとんだセンスを活かしていた服とか売っていたら面白いのですが。古着をカスタマイズして未来的過ぎて一般の人々から理解されないもの売ってたとかなら彼のキャリアっぽくていいですね。

実際クイーンで服作ってるからぜんぜんできそうですが。

多彩な方面で才能を発揮するフレディ

先鋭的なファッションセンスだけでなくピアノも演奏できて、さらにデザインもできるという多彩な彼。

クイーンのロゴデザインも学生時代の技術を活かして自らつくったといいますからセンスにあふれている人物ですが、彼は作曲まで手がけています。

(ギターも基本的な技術ではありますが習得しており、作曲もギターベースで作られたものもあります。)

それもボヘミアン・ラプソディ(映画タイトルであり曲のタイトルでもあります)やキラー・クイーンなど数々のヒット曲を作曲しているので、クイーンの代表曲の多くを彼自身も生み出していたのです。どんだけ多才なんだという話ですね。

ちなみに彼の作曲の特徴は、幅広いジャンルで作られていたところにもあります。ロカビリーやプログレ、ヘヴィメタ、ディスコ、果てはゴスペルまで、どんなもんでも手掛けられると言わんばかりの作曲の手腕を見せつけていました。

これはインタビューで「同じことをするのが嫌いだから」と語っています。また、音楽だけでなく映画や演劇など、さまざまな現在の作品から影響を受けて取り入れることが好きだとも言っているので、彼のセンスの源は非常に旺盛な好奇心にもありそうです。

幅広さや好奇心で言うと、彼はスポーツも好きで休暇にはテニスを楽しむことも多く、ウィンブルドン観戦は趣味でした。

ちなみに卓球やボクシングも得意だったので、文武両道感がいいですね。

(余談ですが、彼が休暇中にニューヨークのブルックリンにあるヤバいディスコにみんなの静止を払って行ったら、案の定シャレにならない大喧嘩が発生して現場にいたビリー・ジーン・キングというテニス界の有名人を助けたという話もあります。ツッコミどころの多い話ですね)

圧巻のライブパフォーマンス

また、彼の多彩さの一つとしても言えるのがライブパフォーマンスです。

歌唱力ももちろんですが、彼の演劇的な表現力自体も世界中のコンサートでの注目の的でした。

(コンサートで実際に見たデヴィッド・ボウイですらその表現に見惚れたというのですからハンパじゃないですね。ちなみに彼はフレディのタイツ姿に見惚れたといいます。タイツ姿か。)

別に見た目が奇抜だから観客を魅了できたということではないでしょう。というか見た目だけで観客を騒がさせるような人じゃないですし。数万単位の会場を世界中で埋め尽くしてコンサートの動員記録を作って行った彼のパフォーマンスは、見えてるのか見えてないのか分からない最後尾の列の客まで心を掴んだともいわれる彼のパフォーマンスを生で見られたことは、人生において貴重な時間だったことは想像にかたくありません。

(クイーン最後のコンサートである1986年8月9日のイギリスのネブワース・ハウスでのコンサートでは30万人の観客の前で歌いました。規模が冗談みたいな。)

とはいえ彼の奇抜な衣装というのはトレードマークみたいなもんで、レザースーツやらタイツやら上半身裸みたいな格好やらはフレディを象徴するアイコニックなスタイル。

1980年代に入ればシンプルなファッションになっていったとはいえ、タンクトック着てるだけでフレディ・マーキュリーになるんですから存在感が格別ですね。ある意味タンクトップだけという姿も奇抜っちゃあ奇抜に見える不思議な力があります。まあ上下真っ白だったりしますが。

多彩さの一面として語りたいのが、親日家であり日本通だったという部分です。

なんと日本公演でのMCの半分ほどは日本語だったということで日本語まで取得しています。

ロンドンの自宅には日本庭園を設けていたほど日本の文化には親しんでおり、日本で公演がないのにもかかわらず来日して骨董品やら美術品を購入していました。意外な一面ですね。

ちなみに新宿2丁目には日本公園のたびに行っていました。幅広い好奇心はセクシャリティの面でも健在です。

セクシャリティと死

ちょいちょい触れていますが彼はゲイであり、映画ボヘミアン・ラプソディでもモロガッツリその性的エピソードは語られまくっています。

恋人にフレディが「僕はバイセクシャルなんだ」と自信なさげに言ったら0.1秒で「あなたゲイよ」と食い気味に返されたり、乱れた私生活で複数の男性と乱痴気騒ぎのパーティかましたりと、彼のセクシャリティは彼の個性の大きな一つともいえます。

偏見でもなんでもなく、マイノリティな性の悩みやら苦悩を宿していたからこそ、さまざまな方面に明るいセンスを発揮していたと思います。音楽的才能、デザインセンス、表現力など、彼がアーティストでありミュージシャンであるためにそのセクシャリティは存在していたといっても過言ではありません。

しかしそのセクシャリティが原因で彼は命を落とすことにもなります。

彼の死の原因はエイズです。

元々は本当に自身がゲイだと認識していなかったのではないかとメンバーのブライアン・メイは語っています。

当時はガールフレンドだけでボーイフレンドはいなかったといいます。それでもぶっちゃけゲイかと思う瞬間はあったそうですし、キャリアの途中から楽屋への来訪者が美女から男性に変わっていったりもしましたが、メンバーは気にしていなかったといいます。

というかメンバーはフレディのセクシャリティな部分について、身近な存在であったにもかかわらずほとんど知らなくて謎に包まれていたとも語っています。

しかし、彼がプライベートで思いっきり男性との夜を満喫していたのは事実で、それが原因で余命をガッツリ削る事態になりました。

そして余命が短いなかで多くのアルバムを残そうとレコーディングに打ち込んでいったのです。

あるときフレディからメンバー全員が自宅に呼ばれて、こう話したといいます。

「僕の問題について知ってるだろうけど、僕は何も変えたくないし、知られたくもない。それについて話したくもない。」

「僕はただ倒れるまで仕事を続けたいんだ」

「だから僕をサポートしてほしい」

現在も続く彼の功績

1991年11月24日に、フレディはエイズによる気管支肺炎で亡くなりました。

45歳という若さで亡くなった彼の偉業は、現在でも続いています。世界中ではトータルセールスが3億枚に上るといわれ、イギリスでは全英アルバムチャートでビートルズを凌いで歴代最も多くの週に名を連ねています。

ボーカリストとしてのフレディは、2011年にイギリスの週刊音楽雑誌NMEでマイケル・ジャクソンに次いで最も偉大な歌手として、同年アメリカのローリング・ストーン誌では読者投票で史上最高のボーカリストに2位を記録しています。

世界的に人気を博すフレディ・マーキュリーはセクシャリティな問題が原因で亡くなりこそしたものの、死後になってより人気を高めたともいわれています。

実際アメリカでは8000万枚近く売れたアルバムのうち、約半分はフレディの死後の売り上げです。

彼自身はキャリアの成功や自らの性について苦悩していました。

けれども通常では量り知ることのできない感性や感受性、センス、そしてコンプレックスを抱いていたからこそ、表現者として偉大だったともいえると思います。

彼の音楽は今後も世界中の人々に届き続け、励まし続け、影響を与え続けることでしょう。