世界中を熱狂させたキング・オブ・ロックンロール!「エルヴィス・プレスリー」のスゴさを大解説!

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田舎のムショで所長がパーティーを開いた

刑務所バンドは大騒ぎ

バンドは飛び跳ね、刑務所中が踊り出す

アンタも聴きなよ、ぶっ飛んだ囚人共の歌を

いきなりの引用で始まって困惑されるかもしれませんが、だれもが耳にしたことのあるイカしたロックンロールの和訳です。

なんと50年代にリリースされた楽曲ですが、ディズニーで使用されていたり各所で利用されまくっているので一度は聴いたことがあるはずなのです。

エルヴィスプレスリーの監獄ロック。いまだ色褪せることのないカッコよさとは本質的なものを捉えているからでしょうか。

そしてこのエルヴィスも日本人でもだれもが耳にしたことのある偉大なミュージシャン。いまの時代でも誰もが知っているというのが恐ろしいですが、しかしどんな人物なのか、はまたまたどんな楽曲があるかは知られていないかと思います。

2022年には映画化もされるということでタイムリーな感じもありつつの、今回は歴史的偉人ともいえる人物の紹介をしていきましょう!

キングオブロックンロールの概要

まずは彼のざっとした経歴を綴っていきましょう。

アメリカのミュージシャンであり、意外かもしれませんが映画俳優でもあります。というのも活動後期は映画に注力していた時期があるのです。

とはいえメインの活動が音楽活動で、なんと全世界でのレコードやカセット、CD等のトータルした売り上げは6億枚以上。意味が分からない規模ですが、現在までの累計だとなんと30億枚以上と推定されています。1つ1円でも30億以上ですね。

こんなとんでもない売り上げを叩き出しているので、当たり前のように世界1位のソロアーティストの名を縦にしています。世界市場最も売れたソロアーティストとしてナンバーワンという、まさにキングオブロックンロール。

この時点でどれだけすげえ人なのかがビンビンに伝わるかと存じますが、彼が50年代に起こしたムーブメントを見てもその影響っぷりには驚かされるばかりです。

1950年代、アメリカどころかイギリスでも大久遠若者をロックンロールの虜にしたエルヴィスは、20世紀後半のポピュラー音楽で最初の大きな流れを引き起こしたとされています。このあたりは詳しく後述しましょう。

1960年代は先ほどもお伝えしたように、俳優としてのキャリアが目立つようになります。意外かもしれませんが30本以上の映画に出演しているんです。

1970年代に入ると歌手活動を再開して、主な活動の場をライブに移すことに。大衆はエルヴィスの映画スターとしての姿ではなく、歌手としての存在を強く待ち望んでいました。その証拠に、1968年にテレビ出演した際には、なんと瞬間視聴最高視聴率は70%を超えたそうです。凄まじいですね…。どれだけファンは待ち望んでいたんだって話です。

偉人に愛されまくった偉人

彼が一般大衆に広く望まれ愛されていたことはこのとんでも視聴率からも窺い知ることができますが、彼が愛されたのはなにも一般人だけに留まりません。

時代を生きた同じく偉人アーティストたちにも広く求められたという超絶存在感にただただ驚愕しっぱなしです。

そのラインナップを見れば一目瞭然。ビートルズ、ボブ・ディラン、エルトン・ジョンにフレディ・マーキュリー、ボブ・シーガーにロバート・プラントと、音楽業界でカリスマ性を発揮しまくったボーカリストに特に憧れられました。

極貧からスーパースターに昇華した経歴も愛される理由

こんな神がかった経歴を持っていますが、彼が象徴とまで祭り上げられるのは、意外にも幼少期の極貧エピソードもあるといいます。決して裕福ではなかったその暮らしぶりから一気にスーパースターにまで上り詰めたことが、アメリカンドリームを象徴するとしてアメリカの国民的ヒーローとして語り継がれているのです。

こんな流れ汲んでりゃそりゃ映画化もされますね。いままでされていなかったのが意外なくらいです。

黒人音楽と白人音楽を融合した偉大さ

彼の音楽ルーツは後に説明しますが、初期のプレスリースタイルの大きな特徴が音楽界に革命をもたらしました。

黒人音楽であるブルース、リズムアンドブルースと、白人音楽のカントリーアンドウェスタンを融合したという点です。

当時のアメリカは今よりも過酷かつ深刻な人種問題を抱えていました。ゆえに、この黒人と白人のミックスを実現したことは考えられない出来事だったのです。

若者に音楽を当たり前に聞かせるようになったきっかけ的存在

いまでこそだれもが音楽を聴き親しんでいますし、若者に音楽は必要不可欠。

しかし、当時はだれもが音楽に慣れ親しむといったわけではありませんでした。そんな折に登場したスーパーロックンローラーの影響力は凄まじく、いままで音楽を聴いていなかった若者が積極的に音楽に触れるきっかけをつくったのがエルヴィスです。

しかもカッコいいですから当然若い女性が放っておくわけもなく、音楽とは無縁だったレディーたちをこれでもかとファンとして軒並みかっさらい、ほぼ同時期に普及し出した安価なテレビやレコードプレーヤーの販売を促進するという家電業界的にも神様な現象を引き起こしました。

音楽だけではなく、キャッチーでイカしたルックの彼はファッションにも影響を与えたのはいくまでもありません。

服装と髪型のイケてる雛形を作り出し、若者たちの文化の中に流行というものが発生しました。ここから若者文化が勢いに乗り出したのです。

エルヴィスプレスリーの記録

ざっと概要に触れただけでもとんでもない経歴の持ち主ですが、彼の記録を見るとさらにお腹いっぱいになれます。

最も成功したソロアーティストとして最多ヒットシングル記録151回。

彼の死の翌日となりますが、1日で最もレコードを売り上げたアーティストとして、それぞれギネスに認定されています。

死の翌日に売り上げ最多のギネス認定って記録が超人っぷりを表していますね。

さらに「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において、も第3位。

そして「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位と、ランキングがあればトップに名を連ねるのが当然となっています。

彼は42歳という若さでこの世を去っていますが、長年暮らしていたメンフィスのグレイランドでは、とんでもないギネス記録があります。

「世界で最も訪問者数が多い私邸(またはお墓)」としてギネス認定。

……生きていようが死んでいようがスーパースターですね。

キングオブロックンロールの生い立ち

さて、彼の人間離れっぷりはしこたま話してきましたが、彼の幼少期はかなり質素なものでした。

なぜかれが偉大なミュージシャンとして君臨するようになったのか、そしてその幼少期はどんなものだったのかを紐解いていきましょう。

1935年1月8日、ミシシッピ州のテュペロの小さな家で彼は誕生しました。家族構成は父と母の3人家族。正確には双子の兄弟がいましたが、誕生時に死亡しています。

(もしもその兄弟が存在していれば、歴史はどう動いていたのでしょう。故人のことをどうこういうのは野暮ですから、話を広げる気はありませんが)

不渡小切手で父が服役するほど、とても貧しい家計で育ったエルヴィス。それでも両親には愛されており、とても大切に育てられたといいます。

そんなエルヴィスは11歳の誕生日、無邪気にあるものを頼みました。

「ライフルが欲しい!」

当然のように母親に却下されることに。なぜそのチョイスなんだと思いますが、男の子が銃に憧れるのは別に不思議ではありません。が、多分アメリカなんで本物をねだった気はしますが。

とにかく代わりに与えられたのがギターでした。これが彼の音楽人生のスタートを切ることに。偉大な息子の前には偉大な母がいてよかったですね。お母様のおかげでロックンロールの王様が生まれるに至ったといっても過言ではないはず。

ギャングスターになる道を外れてロックスターの道を歩み始めたエルヴィスは、自宅の地下にある洗濯部屋で猛練習し、音楽に傾倒していきました。

メンフィスへの移住

1948年、プレスリーが13歳のときにテネシー州メンフィスへと家族が引っ越しました。下宿生活ののち、1949年にはメンフィスにあるロウダーデール・コート公営住宅に転居することに。

ここで音楽との運命的な出会いを果たすことになります。

メンフィスは貧しい黒人の労働者階級が多く、環境はお世辞にもいいとはいえませんでした。しかし、その環境下であるものが日常に流れていたのです。

黒人音楽。貧困の中にも音楽は優しく流れ、エルヴィスはエリス公会堂で開かれたゴスペルショーにも欠かさず観に行っていました。

本当に毎回欠かさず行っていたからでしょう。ある日、エルヴィスは入場料が払えずに1度だけ欠席したことがありました。

これを気に留めたJ.D.サムナーという人物が、粋な計らいをしてくれたのです。

「次からは楽屋口から入るといいよ」

それからエルヴィスは無料でショーを堪能することができました。この経験が彼の音楽のルーツとなっていることはいうまでもありません。

デモテープから瞬く間にデビュー

金銭的には貧しくも音楽カルチャーは豊かだった黒人の街ですくすくと感性を養われたエルヴィスは、高校卒業後は精密金属会社やトラック運転手として働くなど、しばらくはヴォーカリストとは無縁の生活を送っていました。

しかし1953年の夏、エルヴィスはメンフィスのサン・スタジオで録音することに。このとき歌った曲は、当時のポピュラーなバラードソングの2曲「 My Happiness」と「That’s When Your Heartaches Begin」 という曲でした。

そしてこの録音を聴いたサン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはすぐさまエルヴィスの才能を感じ取ったのです。

「黒人の彼女達と一緒じゃなければ、僕は歌わない」

エルヴィスのヴォーカリストとしてのキャリアがスタートしたのはいいのですが、ツアーを始めるとツアー先の白人のプロモーターとの衝突は度々あったといいます。

エルヴィスはコーラスに黒人の女性達を連れていましたが、彼女達を連れてこないようにとひどく差別的な物言いで頼まれることが頻発していました。

黒人音楽へのリスペクトが強いエルヴィスにこんな言い方をしてただで済むわけがありません。エルヴィスは「彼女たちが行けないなら僕も行かない」と行って、相手がいくら謝ろうとも、多額の金を積まれようとも絶対に行かなかったのです。

このエピソードからも見て取れるように、公民権運動以前の1950年代のアメリカは、黒人と白人の隔離は明確でした。音楽一つとってもこの扱いだったのですから、いかに差別が当然の世の中だったか窺い知ることができます。

ちなみに、当時のロックンロールは黒人の曲でありながらイケてる音楽だと世間が気づき始めていました。しかし、黒人に歌わせるのではなく、黒人の曲を白人がカバーしてチャートに掲載され、ラジオで流れていたのです。

たとえ同じ歌を歌ったとしても、黒人が歌えばリズムアンドブルース、白人が歌えばカントリーアンドウェスタンに分類されていた徹底ぶり。

しかし、プレスリーはこの状況を覆しました。

エルヴィスの凄さ

黒人音楽をカバーとして白人が歌うのではなく、黒人音楽を黒人音楽として歌うことに徹底していたのです。

それは黒人音楽の人気にあやかって差別的な思いも混じりながらカバーという真似事をパッとしない白人に歌わせてチャートに載せるなどという愚行ではなく、心から黒人音楽をリスペクトし、白人である自身がどうすれば黒人音楽の『魂』を表現することができるのか真剣に考えていたエルヴィスだからこそ。

彼は当時の差別的な風潮が蔓延っていた世間ではあり得ないことに、黒人のファッションに身を包み、黒人の使うポマードで髪をキメて、黒人音楽を愛聴するド級の不良でした。

それがイケている、カッコいいことだとだれよりも早く気づいた白人がエルヴィスだったのです。

先ほど、黒人音楽をパッとしないマイルドな白人に歌わせるという手法を紹介しましたが、これでは実際は流行らなかったといいます。黒人音楽はあくまで黒人の音楽だったのです。

白人でありながら黒人のワイルドな部分をストレートに表現し、体現できるエルヴィスが登場したことで事態は一変します。

黒人音楽を無理矢理に白人化させるのではなく、黒人音楽に歩み寄る。あくまでリスペクトし、彼ら黒人の音楽を再現したい。ブルースのソウルを表現したい。

それは、超絶にヒットしたのです。

不良の憧れになり大人の反感を買うことに

白人のエルヴィスから溢れ出る黒人のソウルはアメリカ全土で人気を博します。しかし、人気が出れば反発も生まれるもので、保守そうにはエルヴィスのロックンロールは非行の原因となると猛反発を喰らいます。PTAはエルヴィスのテレビ放送を禁止するよう要求するなど、彼のロックンロールの刺激が強すぎる大人の皆様にとって批判と抽象の的となります。

黒人音楽を身体的にも表現

フロリダの演奏中には下半身を動かして歌うことをPTAやYMCAに叩かれ、なんと警官がショーを撮影しており「下半身を動かすと逮捕する」ということになっていたのです。

さらにテレビ番組「ミルトン・バール・ショー」に出演したときに、プレスリーは「ハウンド・ドッグ」という曲の最後を本来の半分の速度で歌いました。

なぜ半分の早さにしたのか。じつは半分の早さで歌えばブルースのリズムになるのです。これをテレビ放送するというのは、黒人差別が当然の社会ではありえないことでした。

彼は黒人音楽の歌唱面だけではななく、セクシャリティナ部分もメインストリームで表現したことが凄さの一つです。曲に合わせて腕を振り腰を回し、さらには前に突き出す。

これらの行為はあまりに下品だと大人達から反感を買い倒しました。

しかし、若者達からは大絶賛され、ファンは急激に増えていったのです。ロックンロールの大スターとして若者たちに熱狂的に迎えられていきます。

ロックンロールが流行った背景

「ロック」「ロール」これらの言葉は元々セックスやダンスを意味する黒人英語のスラングです。つまり「ロックンロール」という言葉はどっぷり黒人文化の音楽そのもの。白人の音楽チャートにこの単語が載るなんてありえないことでした。

しかし、エルヴィスの登場によって事態は一変。白人がR&Bを演奏してもロックンロールと称されるようにんり、なんとジャンル名として定着していったのです。

ロックンロールがこのように流行していった背景には、大人と若者の衝突があります。

第二次世界大戦を終えたアメリカは好景気を迎えており、10代の若者は親から小遣いをもらえるし、放課後にはアルバイトもできたので経済的に余裕がありました。

しかし、郊外での退屈な生活や、大人達のつくる社会の矛盾に気づいていった若者たちは、世の中に反抗するようになります。この反抗的行動は大人とは全く異なる価値観や行動をつくりだしていき、やがて若者たちのムーブメントは大人たちを脅かす存在となっていきました。

これら一連の流れにより、思春期の犯行は社会に反抗する若者というイメージが形成されていきます。

さらに戦後のアメリカでは若者たちの間での奔放な性問題も大きくなっており、大人達はフリーセックスを謳歌する若者たちとロックンロールを結びつけて、ロックンロールを攻撃対象にしたのです。

エルヴィスの登場した時期は公民権運動の真っ只中。公民権運動とは、黒人が白人と同等の権利を主張する運動です。そのため、差別的な一部の白人達は、加熱する黒人のパワーに抵抗を感じさせるに充分な影響力があったのです。

エルヴィスの歌やパフォーマンスは黒人の存在の力を知らしめるものであり、さらに若者が大きな賛同を示したことで大人達が度肝を抜かれました。つまり、社会全体がエルヴィスを軸にした大きな動きに動揺したのです。

60年代のエルヴィスはミュージシャンではなかった?

世界的スーパーロックスターなエルヴィスですが、じつは彼には低迷していた時期があります。

それは意外にも、映画スターとしてのキャリアをひた走ろうとしていた1960年代が関係しています。

彼は62年には主演映画がなんと3本もありました。撮り過ぎ…。

しかし代わりに音楽活動はひっそりとしていて、1年間の間にスタジオでレコーディングされた曲はアルバム一枚、シングル二枚でした。

それ以外は全部が映画がらみの作品ということで、エルヴィスは映画中心の活動をしていたのです。

これにマネージャーとしてエルヴィスをメジャーに売り込んだトムクーパーの映画契約が原因だとか。彼が1969年までは年に3本の映画を作ると約束してしまったがため、エルヴィスは映画俳優の道に進んでしまったようです。

そのため60年代のエルヴィスはミュージシャンではなくほぼ俳優。出す曲出す曲サントラ、映画のサントラ。

この時期に世に現れたのがビートルズです。音楽活動に専念していない間に凄まじいとかそんなレベルじゃないバンドが登場してさあ大変!時代がエルヴィスからビートルズに変わってもそりゃ当然でしょうよ!

しかも映画の評判もイマイチ。エルヴィスの主演映画を世間は注目していないし、脚本もイマイチということもあって映画の興行成績は散々なもの。

こんなグダグダな俳優生活が続いてエルヴィスの不満は募っていき、歌手として復活するきっかけになりました。

復活したキングオブロックンロール!

映画のビジネスにブチ込んだ張本人のトム・パーカーとも確執ができて映画から音楽へ軌道修正していくことに。

実際に世間も微妙な俳優としてのエルヴィスではなく、ミュージシャンとしての彼を求めていたのでしょう。

冒頭で触れた1968年に発売されたアルバムのテレビスペシャルの視聴率は70.2%でした。どんだけ待ち望まれてたんだキングオブロックンロール!

そして発売されたアルバムは32週にもわたってランクインしました。音楽やってるエルヴィスこそがエルヴィスってわけですね。

1960年代の映画スター…?としてのエルヴィスには実際に賛否が分かれており、映画の活動自体もマンネリで評判がよくなかっただけではなく、コンサートをまったくしない60年代のエルヴィスに人々は残念がられていました。

彼は1961年以降7年間もコンサートをせず、映画の中だけで歌を歌いました。ちなみに映画には歌がつきもので、演技だけでエルヴィスが勝負させてもらえることはほとんどなかったといいます。

どころか、熱心に演技したエルヴィスのシーンをバッサリ切られることも珍しくなく、エルヴィス自身もやってられなくなっていったことでしょう。

その反動からか、テレビスペシャルで劇的なカムバックを果たして以降、1969年以降に行ったライブは1000回以上で、年間125回のペースだったといいます。極端過ぎる!!!!!!!

ビートルズとの伝説的な会見

アメリカ全土を大きく揺るがす存在というだけでもエルヴィスがどれだけの存在かは伝わりますが、偉人とのエピソードでも彼の偉大さを垣間見ることができます。

1965年8月27日、ロサンゼルスのプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たした伝説のグループがいます。ロック史に残ると称されるこの会合。

ビートルズです。

ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターは、部屋でくつろぐエルヴィスを見て呆然としたといいます。

伝説のグループ全員がただのファンになってしまうなんて凄まじいことですが、エルヴィスはそんな彼らに「そうやって僕を見てるだけならもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけたことから、4人は慌てて挨拶を済ませて即興演奏が始まったといいます。

アメリカ全土を震撼させれば、ビートルズだってガチガチに緊張して当然ということでしょうか。

ちなみに、プレスリーはビートルズのレコードを全部持っていると言って、彼らの曲も歌って和やかな雰囲気だったといいます。

それをなぜかぶち壊したのがジョン・レノンです。

なぜか「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と言ったそうです。これはジョンの若気の至り、過激なジョークとも言われていますが、その場は氷のように凍りつき、エルヴィスは当たり前ですが気分を害しました。

そしてなぜかジョンは畳み掛けるようにエルヴィス批判をまくしたてました。当時のアメリカ軍による関与によって拡大し続けていたベトナム戦争にエルヴィスが賛同していること、さらにエルヴィスが力を入れていた映画をマンネリ気味だと批判し倒しました。

それ以降、エルヴィスとジョンの関係が険悪になったのは言うまでもありません。

エルヴィスはポールやジョージの曲を曲をコンサートで取り上げることは多いそうですが、ジョンの曲は取り上げていないそうです。露骨ですね。

アメリカ全土を震わせた男を怒りで震わせるとは、ジョンもジョンである意味褒められない意味で凄いですが。凄すぎる男に楯突くのが凄いとジョンは思ったのでしょうか。どちらも偉人なので、そんな凡夫な考えてぶつかってたなんてことはあってほしくないですが…。

エルヴィスの曲紹介

偉大な男の紹介をこれまで綴ってきましたが、最後に偉大な男の曲を紹介していきましょう。

監獄ロック

冒頭で紹介したイカした歌詞とロックンロールが今なお聴いてもカッコ良いってのがすごいですね。

この曲はエルヴィスの同盟映画のためにジェリー・リーバーとマイク・ストローラーという人物によって書かれた曲です。

州立刑務所のバンドをテーマにしているのも印象的ですが、2つのコードの半音進行によるイントロも耳に残るパーティソングです。

「ミステリー・トレイン」

彼が音楽キャリアをスタートさせたサン・ミュージック最後の曲。

ビッグセールスには及びませんでしたがロカビリーの典型といえる名作であり、ロカビリーを目指す人にとって一度はレパートリーになるといわれるほど。

ハートブレイク・ホテル

まだエルヴィスが一部のローカル人気に留まっていた頃、全国でエルヴィスの名が知れ渡るきっかけになった曲です。

当時の流行歌とは異なり暗い歌詞(それもそのはずで新聞記事に載っていた自殺した人物の遺書が元になっているそうです)、楽器も最低限というなんとも派手さに欠ける楽興ですが、ビルボードで1位を獲るわテレビ出演を果たすわと大ヒット。

アメリカ人の多くが最初にエルヴィス・プレスリーの名前を覚えたのは、この曲がラジオから流れてきた時なのだとか。

好きにならずにはいられない

こんな甘い愛の歌かまされたら好きにならずにはいられませんよね。

エルヴィスの晩年のコンサートでは毎回ラストソングで歌われていたため、楽しい夜を締めくくる優しい歌声はファンに様々な想いを感じさせたことでしょう。

心に響く穏やかな音色は時代を経たいまでも多くの人々を虜にし続けています。

イン・ザ・ゲットー

1968年にエルヴィスを復帰させた曲。

なぜ復帰というのか。じつは60年台はB級映画と揶揄される作品を量産し、作曲面でもパッとせず、ビートルズやボブ・ディランなど新興勢力の勢いに負けて過去の栄光と化していました。

アメリカの旧市街の貧困と絶望の悪循環を描いたこの曲で全米第3位、全英では1位を記録してまさに返り咲いた楽曲です。

サスピシャス・マインド

結婚生活2年目に入って夫婦関係が絶賛ぶっ壊れ始めていたときに作成したこの曲は、失望感や夫としての不甲斐なさなどがモロに反映されていることでしょう。

しかし楽曲自体は売れに売れて、ラブソングで7年ぶりに全米1位を獲得しました。

苦しいことを楽曲に反映してヒットしているなら、まだ救われるというかなんというか。

とにかくよかったですね。

死後も語り継がれる不滅のソウル

彼は42歳という若さでこの世を去り、その死には様々な憶測が渦巻いています。

晩年はストレスによる過食もあったといいますし、これだけ注目される人物は穏やかな精神状態ではなかったことでしょう。

けれども楽曲の素晴らしさや生き様はいまもなお多くの人々に影響を与えていますし、これからも与え続ける偉大な人物に変わりはありません。

アメリカ全土を震わせ、白人と黒人の掛け橋ともなり時代を築いた偉大なアーティスト達に尊敬され続け、いまだにその名が世界中に知れ渡るまさに伝説的なアーティスト。

一時は低迷した時期があるとはいえ、そこから見事に返り咲き、人々に求められ続けたことを考えれば、42歳という時間は短命でありながらも時間の密度がとても比較できるものではありませんし、一口に短い人生とは決して言えないでしょう。

50年代の楽曲だからといって、決して古くなどはない。いまからでも当時の名曲を満喫して、エルヴィス・プレスリーを人生の一部にしてみれば、偉人の影響を受けて何かの兆しとなるやもしれませんよ。

いいものはいい。いつまでたっても、これからも。

いいものに触れるというのは、なにものにも代え難いですから。