最先端のジャズを生み出し続けたモダン・ジャズの巨匠「マイルス・デイビス」を解説

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音楽のジャンルは時代ごとに新たなものが生まれますが、前時代の音楽を踏襲しながら新しい形に変化したり、または主流になっている音楽に反骨する形で斬新な音楽が生まれたりと、歴史を紡ぎながら現在まで様々な音楽が誕生してきました。

それは音楽の一ジャンルであるジャズでも同様で、ジャズは時代ごとに特徴のある音楽の形ととってきました。

その一つにモダン・ジャズがあります。そしてそのモダン・ジャズを生み出したのがマイルス・デイビス。彼は「モダン・ジャズの帝王」とも呼ばれ、まさにジャズミュージックの一つは彼によってもたらされたといっても過言ではありません。

また、時代ごとに主流となる音楽にも柔軟に順応し、積極的に自らの音楽性に取り入れていった変遷も見逃せません。今回はジャズミュージックを語る上でとても重要な彼を紹介していきましょう。

マイルス・デイビスとは?

1926年5月26日アメリカはイリノイ州オールトンで生まれたマイルス・デューイ・デイビス3世。

ジャズシーンにおいてはトランペット奏者として名を馳せ、さらに作曲や編曲も行える多彩な一面もあります。

そんな彼はかなり裕福な家庭に育ちました。ミシシッピ川流域にあるアメリカ南部の州、アーカンソー州に祖父は広大な土地を持っており、それだけでも家柄の良さが伺えます。しかも父親は歯科医で、母親は音楽教師と、教養が磨かれるには充分な環境で生まれ育ったのも彼の音楽キャリアに深く関わることとなります。

13歳の誕生日に父親からあるものをプレゼントされます。トランペットです。

トランペット奏者としてジャズ界で朝有名人になる彼が、少年の頃に自らの相棒となる楽器を手に入れるとは。

若き日から奏者としてのキャリアをスタートさたマイルスは、15歳の頃にセントルイスのクラブに出演します。順調にジャズミュージシャンとしての教養を磨いている彼ですが、セントルイスではアフリカ系アメリカ人の労働者が多く住んでいたため、ジャズライブが頻繁に催されていました。

マイルスがジャズシーンで活躍するための感性がすくすくと育っていったのは言うまでもないでしょう。

そして18歳の頃にはマイルスは大きなチャンスを掴みます。1944年、マイルスは18歳のときです。

ジャズミュージックの大物と共演する18歳

マイルスの地元に当時人気だったバンド「ビリー・エクスタイン楽団」がやってきたのです。ビリー・エクスタインは男性的な知的で情熱的なバリトンボイスと端正な容姿から人種に限らず多くの女性を虜にした黒人のスターであり、彼が率いたジャズミュージックのジャンルの一つビバップを演奏するバンドはジャズシーンにおいて非常に大きな影響を与えました。

そんなジャズのドリームチームがマイルスの地元にやってきたとき、ある事件が。バンドのトランペット奏者が病欠したのです。

ピンチヒッターとして、なんとマイルスがバンドに参加することに。そんな漫画みたいな展開ありかよ。

バンドではビリー・エクスタインのみならず、ほかにもスーパースターが目白押しでした。アルトサックス奏者のチャーリーパーカーや、トランペット奏者のディジー・ガレスピーなど、ジャズの歴史上で偉人ばりのメンバーと一緒に10代で演奏するというジャズの神様に愛されまくった経験を堪能したマイルス。

この経験はマイルスにとってたまらない至福のひとときだったのは当然で(とはいえ演奏を聴いてもさっぱり分からなかったとも言っていましたが)とにかく行動の引き金になったことには変わりがなく、彼がニューヨークに旅立つきっかけとなりました。

ニューヨークでジャズキャリアをスタート

彼は世界で最も優秀な音楽大学の1つとして現在数えられるジュリアード音楽院に入学して音大生として過ごしながら、楽団メンバーをビッグアップルで探し始めます。

彼が音大に入学したのもこの大都市に来るための口実に過ぎず、短期間で学校は辞めますが、ジャズのキャリアを積み重ねるには半端ではない経験をしていくことになります。

楽団のメンバーでありアルトサックスの奏者、そしてビバップの創生メンバーであるチャーリー・パーカーと再会して、なんと彼のバンドに加入します。さらに一緒の部屋に住んで過ごすという謎の経験をしながら演奏経験を積み重ねていきます。なんて経歴でしょうか。

そして彼の凄いところというか、ジャズの世界で後に大きな功績を残すことになるきっかけがこの頃からあったのです。

それはパーカーたちの演奏に対して疑問を抱いていたことにあります。

この巨匠に対して自ら疑問を抱くという姿勢そのものが、後に新たな音楽の生みの親となる素質ともいえるのではないでしょうか。

心酔するだけではオリジナルは生まれませんし、優れた厳しい批評家である姿勢こそが次代を切り開くもの。

デイビスがパーカーたちの奏でていたジャズ、つまりビバップのことを「テンポの速い音楽だ」と感じていました。

ビバップ自体が基本的にテンポが速過ぎて万人受けせず、ダンスも踊りにくいとあって好き嫌いの分かれる音楽でしたが、ビバップを生み出したのがチャーリー・パーカーたちですからそりゃ速くも感じたことでしょう。

創生した本人たちの演奏に対して違和感を覚えたことは偉大だと思います。巨匠に影響を受けつつも染まりきつことなく、自身のオリジナルを直感で構築できること自体がマイルスの凄さにつながっていくことは、後の偉業に如実に現れています。

ちなみにパーカーたちの演奏は、どれもこれもがメロディもコード進行も早く、とにかく速く、そして高音域だと感じていました。デイビスから見ると、ビバップはとにかく複雑さを好む音楽であり、またパーカーたち奏者自身もその複雑さを楽しんでいるように写っていました。

デイビス自身はその複雑さに対して違和感があり、もっと音の数を削ぎ落としてシンプルにしたかったのです。

デイビスが創生するジャズ

彼自身が独自の感性で当時のニューヨークの主流ジャズを見ていたのか。

次世代のジャズのきっかけにもなったデイビスの独特な部分は、モダン・ジャズがとにかくテクニック重視であり、そのテクニックを要する部分を美徳として捉えていたことに疑問を呈し、ジャズの別の可能性を模索していった点にあります。

デイビスは高音ではなく、トランペットの中音域にこだわりがあり、また多重音を長く吹くことも選択しませんでした。

つまりテクニック重視で音数で勝負するのではなく、少ないものから多くのものを生み出すことを考えたのです。

新たな可能性を求めて、さまざまな人物との出会いから影響を受けていきます。

ユダヤ系カナダ人のジャズピアニストであり編曲家のギル・エヴァンスとの出会いは後にマイルスの知恵袋とも呼ばれるほど重要な存在であり、神童として少年期から活躍したピアニストのクロード・ソーンヒルから影響を受けながら、ギルと意欲的に新たなジャズミュージックを制作していったのです。

ただただ速いビバップの演奏ではなく、ゆったりとした美しいメロディでジャズを演奏したいマイルスは、ビバップにおいて欠かせないコード進行を排除したのです。

ビバップは指定されたコード進行に沿って演奏するのがルールでしたから、ビバップのルールを打ち壊し、新たなジャズを作っていったということになります。

それがモード・ジャズです。モード・ジャズは、ドレミファソラシドのような一定の音階、このスケールと呼ばれるものを使って自在に演奏することに焦点を当てたジャズです。

ビバップがコード進行を重視するジャズなら、モード・ジャズはモード、つまり旋法と呼ばれる音楽理論を重視したジャズでした。

この旋法とは複雑な概念ですが、ドレミに代表される音階を、さらに音域や音程関係などで分類したもののことをいいます。

音階と似ているものですが、音階と違って性格な音の高さは決められておらず、長調や短調などもないので、旋法、つまりモードとはそのモードを表現する特性音というのがあります。

小難しいですが、モードとは長調や短調以外の選択肢であり、独特なメロディーを持つ音階の一つだと思っておいてください。

このモードを用いてマイルスが生み出したモード・ジャズは、「カインド・オブ・ブルー」というアルバムでまず発揮されました。

1959年に発売されて、累計1000万枚以上のヒットを誇るジャズ界屈指の作品です。

このカインド・オブ・ブルーは2003年にローリング・ストーンズ誌が大規模なアンケートで選出したランキングで、50年代以前のアルバムとして最高の12位に輝いているので、近年でも大きな影響を与えている名作だというのがわかります。

マイルスのこのモード・ジャズが受け入れられたのは、新しい音楽をつくりだしたからというだけではなく、マイルスにしか表現できないような音楽性を表現したから、という見方もあります。

つまり新しい音楽だっただけでなく、唯一無二の音楽だったのです。

マイルスにしか生み出せないアルバムだからこそ、今日でも偉大なアルバムとして現在も語り継がれているだけではなく、彼がモダン・ジャズの帝王と呼ばれる一因になっています。

ジャズの最先端を担っていった存在

マイルスはモード・ジャズを開拓しただけではなく、それ以降もジャズ界においてさまざまな革命をもたらし続けます。

その一つがエレクトリック楽器の導入です。

1960年代後半ではジミ・ヘンドリックやジェイムズ・ブラウンなど、ジャズ以外の世界で非常に有名になり世間を賑わす存在が出てきました。

そこでマイルスはジャズにロックやファンク、R&Bの要素を取り入れようと積極的に動き出します。

自身のバンドにエレクトリックな楽器を取り入れ始めたのです。

ギター、ピアノ、ベースなどあらゆる楽器を電子機器化して、さらにトランペットにワウ・ペダルという音色を加工する装置を取り付けたりと、ロックバンド顔負けの音作りに励みます。

これがフュージョンというジャンルの確立につながっていきます。

1970年に発表された「ビッチェズ・ブリュー」というアルバムはエレクトリック・ジャズ路線を推し進めた内容で、ジャズ史上最も革命的な作品ともいわれる衝撃作です。

この作品もカインド・オブ・ブルーと並んでマイルスの最大のヒット作と呼ばれるようになります。

このフュージョンですが、ジャズをベースにしてロックや電子音楽、ラテン音楽などさまざまな音楽を融合させたジャズの派生ジャンルです。

クラシック音楽すらも混ぜ合わせるなどなんでもありな形で融合、つまりフューズさせたためフュージョンと呼ばれます。

エレクトリックな楽器を取り入れる試み自体は、ビッチェズ・ブリューの前作にあたる「イン・ア・サイレント・ウェイ」でマイルス自身が挑戦しており、それ以前にも電気楽器を使用したジャズ自体は存在こそしたものの知名度は皆無に等しかったです。

それがマイルスによって広く知れ渡ることとなります。単純にエレクトリック楽器を使っただけではなく、リズム面でもジャズ史において斬新であり、「ジャズとロックを融合したアルバム」と形容されることも多い作品です。

実際はロックのみならずファンクからの影響も強く、マイルスがジャズに縛られず幅広い音楽から影響を受けて積極的に取り入れようとしたかが伺えます。

ジャズシーンで最先端を走ってきたマイルスが、突然別ジャンルの音楽のことを言い始めたため、当時はかなりの物議を醸したようです。

新しいものが生まれるたびにこういう賛否両論が付き纏うのは世の道理ですが、それだけ革新に満ち溢れまくっていたからこそ、超絶話題になったということでしょう。

とはいえあまりにも新し過ぎたため、というかジャズ以外からの影響をモロに受けて積極的に取り入れたため、「これはジャズなのか!?」「こんなのジャズじゃねえだろ!!」「いや新しいジャズだ!!」と議論が尽きなかったのです。

結果的にフュージョンというジャズの派生ジャンルになったため、それまでのジャズとして語るには無理があったというわけですね。

数十年にわたりジャズに革命をもたらしたモード・ジャズの帝王

マイルスは1980年以降にはマイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーなどポップスの楽曲まで触れるなど、晩年まで非常に精力的に躍進し続けました。

さらにはプリンスとも交流があったと、どれだけ新しいことをやり続けるのだと感心します。

挙句には1991年にはヒップホップまで混ぜ込んだ「ドゥー・バップ」というアルバムまで発表しています。

ヒップホップはまだやっと世間に広まりつつあったということですし、しかもマイルス自身はこの1991年の9月に亡くなります。

亡くなる直前まで新しいことを取り入れ続けた彼の人生は、彼自身を物語っています。現状に囚われず、留まることなく、時代の潮流に柔軟に適応する姿勢は見習いたいですし、そうありたい。

彼がモード・ジャズの帝王として長きに渡り君臨し続けたのは、新しいものに触れ続け、新しいものを生み出し続けたその姿勢があってこそでしょう。

65歳で亡くなるその歳まで常に新鮮であり続けた彼の人生に敬意を表し、そしてより人生を豊かにしてくれる音楽に感謝しつつ愛聴していきたいところです。