なんとなくファッション業界の人というイメージもかなり強く、ルイ・ヴィトンのディレクターや高級志向のストリートブランドであるオフホワイトのデザイナーであったヴァージル・アブローとも親交が深かったり、やたらとファッショニスタという扱いを受けてそのルックが注目されたりしているイェさん。
だれだそれという話になりそうですが、イェは2021年現在の本名であり、出生時の本名はカニエ・オマリ・ウェスト。
つまりカニエ・ウェストについて今回は紹介したいという次第です。彼はファッション界の重鎮かなというイメージも付随するくらいに洒落者ですが(というか実際にファッションブランドやったりもしているのでファッション界でもしっかり活動してますが)、彼の本業といえばヒップホップ。
つまり音楽業界での活躍が彼の真骨頂です。2020年までにグラミー賞には69回ノミネートされていて21回受賞しており、2019年には最も稼ぐヒップホップアーティストランキングで第1位の年間1億5000万ドル、日本円にして約162億円稼ぎました。
(とんでも数字ですが前年度は10位で2750万ドル、日本円で約36億ドルだったのに急に1位になったのは自身のファッションブランドYeezyの売り上げが好調だからという、やっぱりファッションじゃないですか!と突っ込みたくなるファッションな活躍っぷりをしています)
ハイブランドのバレンシアガともコラボして全身真っ黒フードすっぽりのアイテムを要注目で、コレクションのアイテムで身を固めれば2021年のメットガラに登場したカニエウェスト装備があなたの手に!
ファッションの話題しかしてないので彼の音楽人としてのキャリアをここから紹介していきましょう。本当にファッション業界の人の説明になってしまう。
カニエ・ウェストとは?
1977年6月8日にアメリカはイリノイ州シカゴ出身のイェ。なぜイェという名前にしたんだカニエという話ですが、そもそもニックネームでカニエが個人的にこれまでに使ってきた名前であり、SNSでもハンドルネームとして使用してきました。
そして個人的な理由で「Ye」にマジで裁判所に申請して本当の本名にしたカニエことイェさん。2018年のインタビューでは「聖書で一番使われてる言葉だと思っているのがYe(イェ)」と発言しており、「聖書では『あなた』という意味で、つまり私はあなたであり、私は私たちなんだ」と壮大な哲学発言を残しているので、自身の思想を反映した名称としてイェを本名にしたのでしょう。
パッと聞いてユーモラスに聞こえるのは日本人だからってのもありますが、茶化されるような理由でカニエが改名するわけないのでそりゃ深い意味もあるでしょう。世界的なファッショニスタもとい音楽家がノリで本名変えるわけがない……いや人によっては世界的でもノリで改名する人いくらでもいるでしょうが。
ことカニエはそんなことせんでしょう。
というのもカニエはフォトジャーナリストの父とシカゴ大学の教授というなんともアカデミックな香りのする家庭環境に生まれ、幼少期から芸術的な才覚を発揮していたという人物。
3歳の頃に両親は離婚していますが、5歳の時点で絵を描くのに夢中だっただけでなく、なんと詩まで書いていたそうです。絵は分かるけど詩って。歌詞の下地はすでに5歳の時点で?
しかし家庭の事情で10歳からなんと中国は南京に移住します。で、このとき彼はいじめに遭っていたといいます。中国に黒人が行ったらマイノリティでイジられたというところでしょうか。カニエがいじめに遭っていたというのが意外ですが、辛い経験は将来の糧になるので結果オーライともいえる、というのは外野からの意見で当の本人からしたらそんなもん嫌に決まってるって話ですね。
しかし辛い経験やら芸術への才能やら、アーティストとして開花する種が揃ってる感があります。しかも両親離婚という家庭の問題も抱えているとあって、内在する闇を蓄積できた経験は表現者としての核たるものが構築された幼少期と外から見れば思います。
シカゴの学生時代
中国でのクソな経験後にシカゴへ戻ったカニエは、美大に通い始めます。やはり芸術方面へ進んでいたのですね性に合ってると思います。
1990年代後半、この頃にはプロデューサーとしてメジャーではないミュージシャンに曲を提供していました。
というのも彼のキャリアは自身がラッパーやって人気者になったというところからではなく、プロデューサーとして業界で有名になったのがそもそものスタートです。
なので彼が在学中にプロデューサーとして活動していたのは自然なことかもしれません。しかし学生時代にはヒット作を生む機会には恵まれなかったので、学業と並行しながら活動する日々を送っていました。
ちなみにアカデミー・オブ・アート大学という美大で絵画制作の授業を受けていましたが、すぐにシカゴ州立大学に編入しています。いや美大が合ってるとか言ったのにすぐに英文学専攻の学生になってるのかよ。
とにかく学生時代は学業と並行して音楽活動をしていたのですが、彼に転機が訪れるのはとある有名人の目に留まったから。
ジェイ・Zに才能を見出されたカニエ
なんとジェイ・Zに注目されたのです。ジェイ・Ztohaヒップホップ界において超絶有名な大物であり、アメリカ市場最も裕福なミュージシャンで歴史上の第1位として経済史のフォーブスに載るようなガッチガチのスーパーラッパーです。
彼は自身がスターなミュージシャンなだけでなく、プロデューサーとしても手腕を発揮していました。
そこで才能ある若手を発掘する作業に勤しんでいたところ、イェことカニエ・ウェストが見つかったというわけです。
ジェイ・Zの目に留まるってのがヤバい。というかジェイ・Zの先見の明がヤバいですね。さすがはビヨンセの旦那。もっとほかの褒め方しろって話ですね。リンキン・パークとのコラボ曲カッコ良すぎる。関係ないですね。
そして彼はプロデューサーとしてロッカフェラ・レコードというレーベルと契約します。ちなみにここはジェイ・Zが設立メンバーの一人であるレーベルです。
こっから彼が音楽業界で着々と名を上げていくことになります。
ラッパーに成りたいのに成れない
20代前半の時点でプロデューサーとして人気を獲得していったイェさん。これがまた学校通いながらだったという学生さんだったのですごいことですが、学業と両立できないくらい多忙になってきたため、大学を中退して音楽家として生きていくことになります。
しかし彼は音楽プロデューサーとして活躍するのは本望ではありませんでした。というのは今でこそイェことカニエはラッパーとしての印象が強いですが、前述したようにプロデューサー業がメインでキャリアをスタートさせた人物。
なぜそんな彼がラッパーやってるのかというと、そもそも幼少期からラッパーとして成功したいという思いが強く、ラッパーとしても活動していたのです。
それが単純に売れず、代わりにプロデューサーとして成功しちゃったものですから、プロデューサーとしての仕事には恵まれるものの、ラッパーとしての契約は難しかったのです。
たしかにプロデュースに長けている人物が「僕ラッパーやりたいんです!」と言ったら「いやああなた裏方として優秀なのになんで表で歌いたいとか言ってるんですか…?」となるのも止むを得ませんね。
ファッションとカニエ・ウェスト
そしてもう一つ、ラッパーとしてあまり歓迎されなかった理由があります。
ファッションです。
世界のファッショニスタがなんでファッションで拒否られたんだと不思議な話ですが、不思議でもなんでもなく、ファッショニスタだからこそ拒否られました。
彼はジェイ・Zと面会する際に「ビシッと決めていかにゃあな!」と、タイトめなTシャツを着て会いました。
しかし当時のヒップホップシーンではダボダボかつ男っぽいオーバーサイズが主流だったため、いい子ちゃんで真面目なスタイルのカニエのルックスにジェイ・Zは驚いたそうです。
それほどヒップホップはイコールオーバーサイズと決まっていたのでしょう。正装がオーバーサイズだというのがヒップホップっぽいですね。
ですが正装といえば通常はジャストサイズのスーツなどビシッとした出立ちが基本です。
そしてカニエは貧困で喘ぐギャング街の出身でもなければ不良でもなく(出身はあのギャングなタウンのシカゴではありますが)フォトジャーナリストの父とシカゴ大学の教授というきちっとしたお家で育ったので、ファッションの発想が良くも悪くもヒップホップではなかったのでしょう。
そして音楽業界に足を踏み入れてからラッパーとして成功した地思っていても、ヒップホップっぽくないルックスのせいで表舞台でラッパーとして歓迎されにくいというのもありました。
しかしダボダボで金ない感じのずーーーーっとオールドなヒップホップなファッションが当然化していて、時代がタイトでスマートな格好になっていてもずーーーっとダッボッダッボのままだったヒップホップファッションに革命を起こしたのが、ほかでもないカニエになります。
それはもっと後の話ですが、スキニージーンズがラッパーのイケてるファッションに仕立て上げてしまったのはほかでもないカニエです。しかもハイブランド混ぜてラグジュアリーなストリートファッションを提案するようになったのも、このヒップホップっぽくない彼の下地があったからこそ。
革命を起こす存在ははじめは拒絶されるってのはどこでも真理ってわけですよなあ本当。
裏方から表舞台へ
しかしまだ彼のスタイルは評価されず、プロデューサーとしての才能だけ買われていました。ですが彼はラッパーになりたい欲が強く、周りはそんな彼に納得いかないなか、プロデューサーとしての才能がほかのレーベルに取られることを防ぐために、仕方なくロッカフェラ・レコードというレーベルが契約しました。
ぜんぜんカニエにとって不本意な契約のされ方だったでしょうが、とにかくラッパーとしての第一歩には違いありません。
それから彼がラッパーとして大成するきっかけはなんだったのか。それは事故です。
2002年にスタジオからの帰り道、居眠り運転をしていたカニエが事故って顎が3つに分かれました。ラッパーになったのに商売道具がぶっ壊れるって。
で、顔にこれだけの損傷があった事故なのでもちろん命を失いかねない事故でもありました。こんな経験したものだから表現をしたいという本気の気持ちがより過熱して、ワイヤーで固定された顎の痛みと生活に耐えながら完成させたのがデビュー曲の「Through The Wire」です。
ちなみに意味は「ワイヤーの間から」です。意味深ですね!
文字通り死ぬ気で生み出したこの楽曲は評価され、これまで彼をラッパーとして評価しなかった、仕方なく契約したロッカフェラ・レコードは手のひら返して大絶賛。
これを機に本格的なデビューアルバムを作成することになるのですが、カニエは以前からラッパーになる気満々だったため、とっておきの作品をあれよこれよと出してきてアルバムは完成。
2004年にリリースしたデビューアルバム「The College Dropout」は全米で2位を獲得します。ちなみにアルバムの意味は大学中退って意味ですね。なんで自分のネガティブな過去を引用しがちなのか。
とにかくデビューアルバムでグラミー賞3部門も受賞する成功を収めたは彼が、ここからあれよあれよとスターダムにのしあがっていき、ヒップホップシーンに革命をもたらしていきます。
ヒップホップファッションに革命を起こしたカニエ
ラッパーとして数々の功績を収めた彼は今では紛れもなくスターですが、彼がヒップホップを大きく変えた点はやはりファッション面がクローズアップされます。
前述したように彼のヒップホップっぽくないファッションが当時は受け入れられず、しかし彼がメジャーになるにつれて洗練された高級志向のファッションがイケてるとヒップホップ界隈でも変貌していきます。
というのもカニエはヒップホップの楽曲のセンスももちろんですが、ファッションの感性も昔から優れていました。
そのエピソードを物語るのがヴァージル・アブローとの出会いです。
カニエがまだデビューシングルをリリースする前後の2000年初頭、ヴァージルが働いていたショップでカニエは出会ってビビッとヴァージルの才能を見抜きました。
黒人初のルイ・ヴィトンのメンズウェアのクリエイティブデザイナーとして指名され、世界中で引くぐらい流行りまくったオフホワイトのデザイナーにして、若干41歳でこの世をさった才人。
このヴァージルはカニエに見出されて有名になったのがきっかけですが、カニエがいかにファッションに対して優れた感性を持っているかが窺える話です。
ちなみにヴァージルとは親交が深く、カニエのステージ衣装やデザイン、さらにはアルバムのアートワークまで全面的にディレクションしていたのがヴァージルです。
現在でもヒップホップ業界のみならずファッション業界でも活躍し多大な影響を与えているカニエ。
大統領に立候補しようとしたり、顔面がまったく見えない衣装でライブやったりといろいろ騒がしい彼ですが、今後もカニエことイェ氏がどんな活躍をしていくのか注目しっぱなしです。
ラッパーとして大成する前は「ダボダボじゃねえのあり得ねえ!」とマイノリティ扱いされていたカニエが流行震源地になるというのは、時代を変える象徴的な人間。
彼が今後も時代を変えるなにかしらをぶちかますのではと自ずと期待します。