パワフルかつセンシティブな永遠の歌姫「シンディ・ローパー」を解説

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名前こそ聞いたことはあれどあまりどんな人なのか知らないという方も現在では多いかもしれません。

しかし音楽番組の先駆けでありであるアメリカのMTVが放送された初期にはその名を轟かせていた歌姫がいます。

シンディ・ローパーです。デビューアルバム「She’s So Unusual」は500万枚の売り上げを記録し、独特な派手なファッションは当時のアメリカの10代の少女を虜にして、彼女のようなファッションに身を包む女の子がそこらじゅうにあふれかえっていました。

ファッションアイコンにもなるような人物なのでいかにキャッチーな存在だったかが窺えますね。その時代を象徴するようなミュージシャンはやはり重要な存在ですしそれぞれの自在を物語る上で貴重にもなります。

彼女の場合は80年代のイメージをそのまま投影したような人物であり、80年代を理解するには彼女のことを理解するのが一つともいえそうです。

そんなカラフルな女性を今回は紹介していきましょう。

シンディ・ローパーとは?

いまいくつなのかという疑問が浮かぶ元気娘は、2022年現在でなんと68歳。しかしいつまで経っても若々しさというか、年齢を感じさせないのはさすがアーティストといいましょうか。

というわけで生まれは1953年6月22日はニューヨークのブルックリンで生まれました。

かなりいろんな国の血が混ざっていて、父親はスイスやドイツの血が混じっており、母親はイタリア領のシチリア系の血が入ったアメリカ人でした。

そんな長身は5歳のときに離婚しており、母や幼い兄弟とともに幼少期を過ごしました。

アーティストの人はやたらと家庭環境に問題がある人が多い印象もありますが、それは気のせいではないかもしれません。

幼少期の孤独であったり不満が創作性の原点になってることも珍しくないでしょう。充実している人はアーシストになることは難しいです。内側に不満や不安を抱いているからこそ表現という形に代替することができるわけで、満たされている人は常に表現者の作品を享受できる立場にあります。

創作性のない人からすれば「なにか生み出せて羨ましいよねえ」というかるーい悩みにつながるでしょうが、創作するしかやっていけないような人からするとその憧れはけっして輝かしいものではないはず。

シンディ・ローパー自身もミュージシャンとして大成こそしたけれども、幼少期はあまり幸せではありませんでした。

そもそも両親が物心つくようなときに離婚してる時点で不幸ですが、それからは学校でも浮いた存在でした。

家庭にも複雑な事情があって学校でも馴染めなかったらそりゃ良くも悪くもアーティスト気質が育まれることでしょう。吐け口としてか、彼女は12歳のときにはギターの弾き方を学びながら作詞を行なっていました。

いい感じで早速ものを作り始めていますね。授業をサボっては絵を描いたり歌うことで過ごしたので、内側の感情をどうにか解消しようとしていたのではないでしょうか。

17歳では高校を退学して家も出ました。自身の環境にかなり不満があったようなので、溜め込んだ感情が今後のキャリアにつながっていくことは言うまでもありません。

フリーダムになったシンディ

こんな言い方あれですが映画とか物語の始めとしておもいっきりふさわしいようなスタートを切っているシンディ。家庭や学校に不満があって個人的にあれこれと絵や音楽に触れていて、ついに現状にブチ切れて行動によって環境を大きく変える。

まさになにかが始まっていくような流れですが、シンディはさまざまな仕事を転々としながら過ごしていきました。

ウェイトレスや絵のモデル、さらには空手教室の呼び込みやら競馬場で馬の世話をしたりとバラエティに富んだ経験をしながら、意外にも高校卒業認定資格を取っています。ちゃんとやることはやっているんですね。

しかし自由にも行動しており、アートスクールで絵を学んだり、カナダはトロントの森にテントを張って絵を描いたりして日々を過ごしました。魔女の宅急便でそういう女性いましたが、シンディにもなんとなくそういうイメージを持ってしまいます。

この自由気ままなカナダでの旅行生活を終えてから、彼女はニューヨークに戻ってきて音楽のキャリアをスタートさせることになります。

音楽キャリアのスタート

自由奔放な旅を終えた彼女は地元で音楽のキャリアを開始することになります。

バックグラウンドシンガーとして活動したりメインで歌ったりとさまざまなバンドでヴォーカルとして経験を積んでいきますが、ここで問題が。

なんとあまりにも歌い続けたことで、彼女が声帯を痛めて声が出せないようになりました。どれだけ歌っていたんだという話ですが、ヴォーカリストとしての活動への本気っぷりも窺えるエピソードではあります。

しかしそれから1年ほど歌うことを控えていたといいますから、かなり本格的に炒めていたことになります。

そこでキャリアが終わるようなことがなくて良かったと思いますが、彼女はちゃんとボイストレーニングを受けて回復したので無茶なことを続けなくてよかったですね。

それからシンディは1977年にキーボード担当のジョン・テュリと出会い、馬が合ったのでそのままバンドを結成します。このブルーエンジェルはニューヨークでけっこう話題にはなり、1980年にはメジャーデビューを果たします。

ここから破竹の勢いで彼女の歌姫っぷりが炸裂するのかと思いきや、ブルークイーンはいまいち商業的にヒットすることはなく、シンディ自身は金も名声も得ることがなく破産申請だけする羽目になったので、生活はカツッカツだったようです。

挙句にバンドも解散して、彼女はまたもや成功から遠ざかってしまいます。

それからは地元のクラブやレストランで地道に歌っていた彼女。しかし運命的な出会いを果たすことになります。

1983年にマネージャーとなるデビッド・ウルフがポートレート・レコードというレーベルとの契約を手に入れて、それからレーベルのプロデューサーたちの全面的なバックアップにより1983年にはメジャーでニューを果たします。

このメジャーデビューアルバム「She’s So Unusual」の中から先行で出されたシングル「Girls Just Want to Have Fun」が彼女の歌姫っぷりを確定させます。

ソロ歌手としてのしょっぱなのメジャーシングル曲で成功しているので、わりかし下積みというか色々あった彼女にしてみればやっと日の目を見たというところでしょうか。

この曲はビルボードで2位に名前を刻んだだけでなく、全世界でヒットしまくります。

イギリスでは2位になり、オーストラリアやカナダ、アイルランド、そして日本など10カ国以上で1位をかっさらっているのでいきなり世界的な歌手になってしまいました。

ミュージック・ビデオもかなり特徴的ですが、こん曲はヒットのわりに3万5000ドルかからないで作成できました。

というのもボランディアであったり機材を無料で借りることができたりと、けっこう周りに恵まれて制作できたようです。

ちなみに母親役の女性は実際のシンディのお母さんだってことです。そうなのか。

以降もアルバムはグラミー賞で最優秀アルバム・パッケージ賞を手に入れたりとアルバム自体も評価され、そのほかの曲も「Time After Time」はビルビードホットで1位になったりと軒並み好調。

ちなみに日本にもプロモーションのために来日しており、当時の笑っていいとも!に出演していたとのことで、時の歌姫がタモリさんとお昼に番組やってたというのも今となっては驚きです。

瞬く間に時代を代表するシンガーに

悶々としていた学生時代やら不遇のシンガー時代が嘘のように一気に大ブレイクした彼女は、80年代を代表する世界の歌姫となりました。

それは彼女の女の子らしいキュートな声色とパワフルな歌唱力のみならず、彼女の奇抜なファッションは時代に大いに受け入れられることになります。歌声だけでなくルックスも大いに受けていった彼女。

以降も80年代中盤はヒット曲を生み出してましたが、いろんな意味で瞬く間に世界的なシンガーとなったともいえるかもしれません。

彼女の名声はそう長くは続かなかったのです。

1987年に映画の撮影に入ってからスランプに陥った彼女。マネージャーであり恋人でもあったデビッド・ウルフとは破局するなど、うまくいかない流れがやってきます。

ちなみに撮影した映画は「バイブス秘宝の謎」という1988年のアメリカ映画で、シンディは本作で主演を務めました。ちなみに主題歌も自分で歌っています。

話もけっこうなアクション映画で、シンディ演じる主人公の女性は超能力を持っており、その超能力を駆使して南米に旅立って幻の秘宝を手に入れるために奮闘するというものでした。

彼女のキャラクター性は一般大衆向けのイメージそのままを投影されており、初映画に抜擢されて話題性もすこぶる良かったのですが、興行的な成功を得られたとはいえず、批評家からも酷評されました。

のみならず、シンディ自身も「この映画は私のキャリアを傷つけた」と酷評する始末で、映画がどんだけダメだったのかが伝わってくる感じします。

しかし翌年1988年に旧ソ連で行われたイベントに参加したことでスランプを抜け出して、「涙のオールナイト・ドライヴ」は全米で6位を記録しました。

しかし彼女は80年代の歌姫ともいえる存在だったかもしれません。

デビューしてからキャラクターよろしく自由に活動した彼女ですが、成功したらしたで会社やら周りの人間からあれこれと言われまくって自由に音作りをすることも困難になっていき、彼女自身やる気を失っていきます。

日本との関係

それからも活動自体は声量的に行いました。あのジョン・レノンの嫁さんであれこれと話題が尽きない日本の有名人オノ・ヨーコから「ジョン・レノン生誕50周年コンサート」へ参加依頼されて出演したり、ベルリンの壁崩壊を記念して行われたコンサートに参加したりとグローバルに活躍。(ベルリンの壁崩壊を記念するというのが凄まじく時代を感じずにはられなエピソードですが)

日本でもなんと第41回の紅白歌合戦に出場していたりと何気に日本との縁もけっこうあるんですね。

ちなみに1995年には阪神淡路大震災の被災者に対する寄付も行なっているので、日本に対する思いというのが窺えます。日本人気も高かった彼女ですから、彼女と日本の関係は良好だったということでしょうか。

その年の年末には日本に来日してコンサートを催しているだけでなく、なんとフジテレビの正月特番でものまね番組が放映された際、ものまねやってる人間の番に彼女自身が本人として登場するというぶっとんだ展開までかましました。

世界的なスターがこんなポンポン出ていいのかって話ですが、彼女の自由奔放さにもつながっているのかもしれません。

彼女は1996年にも来日して公演しただけでなく、神戸市にある生田神社で震災復興のための節分祭が行われたときには豆まきをするために来日しています。豆まきを行うために来日って。

そんな豆まきが無事に終わるわけもなく、参拝客という名の観客が殺到に殺到しまくって、彼女の節分はわずか2分で中止することに。ツッコミどころの激しい話ですね。

しかし復興支援のために行事に彼女が参加するなど、やはり日本は彼女にとっても大切な国ということでしょう。

当時の歌姫が震災で落ち込んでいるときに来日してイベントに参加してくれるというだけで、災厄に苦しめられた日本人の心は救われたはずです。

キャリア的には80年代が全盛期だった歌姫

彼女はキャリア的な話をすれば、80年代が最も華やかな時代を謳歌したといえます。

彼女自身がボロカスにいった88年の映画デビュー以降、音楽的にもアルバムの低迷だったり、チャートでも最高順位がいまいち伸び悩んだりと、アーティストとしては歌姫の時代を過ぎ去ったともいえるかもしれません。

1993年のアルバムは前胸を共同でプロデュースしていたのですが、チャート最高順位は112位と黄金期からは考えられない記録となりました。

以降もオリジナルアルバムを発表するも注目を集めるというには難しいような結果が続いていきます。

しかし2000年代に入っても彼女は活動を続け、ポップスのスタンダードな曲をカバーアルバムを発表して好評を博したりと、キャリア自体は継続して続いています。

そしてなんと2011年3月11日に起きた東日本大震災の直後には、海外からのアーティストが来日公演を軒並みキャンセルするなか、彼女自身は予定通り3月16日にコンサートを行いました。

しかも会場で募金を呼びかけて、なんとコンサート自体をチャリティのイベントにしたのです。

彼女が大の親日家として知られているのは言うまでもありません。悲惨なことがあった場所でこれだけ積極的に活動してくれれば震災にあった人々の心はどれだけ支えられることでしょう。

2013年にもサマーソニックに出演したり、2015年にも日本で全国ツアーを開催したりと、日本との関係が深い彼女。

奇抜な髪型やら独特なファッションセンスやらが目を惹きますが、内面はとても感受性が強く博愛に満ちたアーティストらしいアーティストである彼女は、これからもこの先も歌姫であることに変わりありません。