「蝶のように舞い蜂のように刺す」
いきなりなんで名ボクサーの名台詞から始まったんだと言う話ですが、かのモハメド・アリのボクシングスタイルを華麗に表現した言葉としてだけでなく、史上初めてのラップともいわれているから紹介した次第です。
(アイスキューブなど世界的に有名なヒップホップアーティストもこの言葉を引用して曲を作っているほど、ヒップホップシーンにおいても重要なセリフなんですね。なんと日本人のラップでも使用されているのです。ブンブンブン!)
というわけで今回の話題はヒップホップについて。
1970年代に生まれた音楽ジャンル「ヒップホップミュージック」。
そう聞くとずいぶん新しい音楽なのだと改めて思います。
そしてその生まれた歴史もかなり新鮮なものです。音楽をルーツとしているにはいますが、それとは別に人間の負の側面も発展に大いに貢献しました。
ヒップホップミュージックといえばサンプリングやら打ち込み、ラップなどが印象的だと思います。
そんな音楽はどのようにして生まれたのか、今回は紐解いていきましょう。
そもそもヒップホップとは?
ヒップホップミュージックといえば、ある程度どんな音楽かイメージの沸く人も多いはず。リズミカルに言葉を操るラップはまさにヒップホップらしい!と思う人も多いでしょうが、じつはラップはヒップホップの要素の一部です。
どういうことかというと、ヒップホップは4大要素をまとめてヒップホップと形容します。その4つとは、ラップ・ブレイクダンス・DJ・グラフィティです。
ヒップホップ=ヒップホップミュージックではないんですね。
(ちゃんと「ミュージック」とつけるか、「ラップミュージック」と形容した方が近い)
なぜこれら4つをひっくるめてヒップホップというのか。それにはヒップホップが生まれたブロンクスという地区のぶっとんだ治安が関係しています。
ヒップホップは1970年代にニューヨークのブロンクス地区で生まれたといわれています。
どうしてこの地区でヒップホップが生まれたかというと、治安がめちゃくちゃ悪かったからです。
「なんで治安が悪けりゃヒップホップが生まれるんだ?」という疑問も生まれるでしょうが、あまりに治安が悪過ぎて人々がなにかでストレスを発散しなきゃやってられなかった、というのが一つあります。
どれぐらい治安が悪かったかというと、ギャング同士が殺し合いをするのが日常茶飯事で、街が燃えるというのも珍しくなかったほど。ブロンクスの終わってる治安とそこから生じる景観の壊滅っぷりを見た報道機関のセリフでは「第二次世界大戦で崩壊したベルリンのようだ」と言われたくらいです。
そのくらい終わってる環境で、人々が希望を見出すために生まれたのがヒップホップでした。
ヒップホップにおけるバトルカルチャー
つまり、ギャング同士の抗争など暴力的なエネルギーを、「なにか価値のあるものに変化させていこうぜ」というイカした想いから生まれたのがヒップホップカルチャーです。
ちなみに、4大要素の一つであるブレイクダンスは、ギャング同士が殺し合いをする代わりにダンスバトルで勝敗を決めようというギャングの発想から生まれたとする説があります。そのため暴力的かつダイナミックなムーブがブレイクダンスの特徴というわけです。
同様に、ヒップホップミュージックではラップでのバトルがカルチャーとして大きな要素になっています。
音楽でもバトル要素が組み込まれているのは、ブロンクス地区がいかにリアルなバトル、血で血を洗う生身の闘争が繰り広げられていたかを物語っているのでしょう。
そのバトルを平和かつカッコよく昇華させたのがブレイクダンスでありラップなのです。
ヒップホップという文化が治安の悪さと密接な関係にある、というか治安が悪かったからヒップホップカルチャーが生まれたと言うのはそういう背景があるからといえます。
ヒップホップミュージックはどうやって生まれた?
ではこの音楽はどこでどのように生まれたかというと、ブロンクスの公園やら知人宅でのパーティでかかっていた音楽です。仲間内で楽しくやろうってときにイカした音楽かけようぜという、ものすごい地域密着型の音楽として生まれました。
起源でいえば、諸説はあるものの3人のDJによって生み出されたといわれています。
ブレイクビーツと呼ばれる音楽を生み出したジャマイカ系のクール・ハーク。ギャングのボスであるアフリカ・バンバータ。スクラッチを生み出したといわれるグランドマスター・フラッシュ。
彼らの功績によってヒップホップミュージックの型ともいえる部分が出来上がりました。
なんでギャングのボスがヒップホップミュージックの始祖の1人なんだっていうのは、さっきも説明したようにギャング同士の構想をまとめるために提案したのが彼だといわれているからです。
ちなみにこれがブレイクダンスの始まりにつながっていきます。イケてる発想してくれましたねギャングスター!
ブレイクビーツとは?
ちなみにブレイクビーツとは、その名の通りブレイクダンスともつながりがあります。このブレイクビーツを使ってダンスをしていたからブレイクダンスともいわれていますが、ブレイクビーツはレコードのドラム演奏部分のみをループ再生することで生み出す音楽で、ブレイクとはドラムのリズムだけになる部分のことをいいます。
ヒップホップは終わってるブロンクス地区を良くしようと言う、いわば更生プログラムのような扱いでスタートしたカルチャーです。
なんでわざわざドラムのリズムだけになるところをループしたのかというと、当時パーティをしていたとき、このブレイク部分で客達が盛り上がっていたからです。
「じゃあもっと盛り上げられるようにここだけ繰り返せばいいじゃねえの!」という発想のもと、ターンテーブル2台に同じレコードをかけて、ブレイク部分をつないだのがカリスマDJクールハートです。
3人目のグランドマスターフラッシュは、当時DJのミスとして扱われていたスクラッチをヒップホップミュージックのテクニックとして確率したといわれています。
スクラッチはレコードを擦った時に出る音なので、これがイケてると感じて音楽に昇華した彼はすごいですね。
ブロックパーティで愛された音楽
ちなみにクールハーツは妹の誕生日パーティのためにDJ始めたらしいです。地域密着音楽すぎぃ!!!
それもそのはず、黒人街で生まれたヒップホップミュージックは、コミュニティがとても重要でした。公園であれ妹の誕生日会であれ、人々が参加して仲間と楽しむ空間。
ブロンクスには街区、つまりシティ・ブロックがあります。
ブロックごとにコミュニティがあり、ブロックごとにイベントを催す。このブロックパーティで発明されて鍛えられていったのがDJとMC、つまりヒップホップミュージックです。
いかにブロンクスを楽しく盛り上げよう、平和にやっていこうと黒人たちが明るい未来へ向かうためにカルチャーを発展発達させたかが窺えます。
ギャングの抗争、殺人、麻薬、貧困にあえぐ薄暗さがあるからこそ、希望を求める思いは尋常じゃなく強かったのでしょう。
ちなみに、このヒップホップミュージック最初期ともいえる音楽はオールドスクールと呼ばれるジャンルです。
オールドスクールという言葉を直訳すると「古い学校」ですが、意味的には古さや前時代的なニュアンスを含む言葉です。オールドスクールはヒップホップミュージック以外でも使われますが、この場合は「古き良きヒップヒップ」という意味合いです。
オールドがあればということで、ミドルスクールやニュースクールなど、その後に続くヒップホップのジャンルもあります。
DJとMCが欠かせなかったヒップホップ
ヒップホップ誕生にはクールハークの生み出したというブレイクビーツが大きく関わっていますが、ブレイクビーツはパーティで客を盛り上げるために生まれた音楽です。
で、されに客を盛り上げるためにどうしたかというと、客を煽るという行為をしました。
ただでさえ盛り上がる音楽であるブレイクがかかってるときに、マイクパフォーマンスでMCが客を煽り、ユーモア混じりのリズミカルなべしゃりで客を沸かせる。
これがまさにヒップホップミュージックのルーツとなりました。
つまりヒップホップミュージックは、音楽として生み出されたというよりは、パーティの客を盛り上げようとした結果、自然に生まれた音楽というわけです。
で、パーティを盛り上げてくれるDJとして活躍したのが、さっき紹介した3人。クールハークとアフリカ・バンバータとグランドマスター・フラッシュだったわけです。
客をしゃべりで盛り上げるMCは重要であれ、あくまで中心は音楽をかけるDJだったので、名DJはブロンクスで引っ張りだこ。
音楽がなけりゃそもそも盛り上がるきっかけがないですからね。MCのしゃべりはDJの音楽があってこそ。
ニューヨークが大停電したらDJがたくさん生まれた!?
パーティを盛り上げる名DJとして名を馳せた彼らですが、逆にいえば彼らしかDJをやれなかったのが最初期です。
DJのやり方をみんな知りませんし、そもそも貧困にあえぐブロンクスでブレイクを生み出す機材を買えません。金がありません。レコードも買えません。金がありません。
で、この状況であることが起こります。
1977年7月13日、午後9時から翌日14日の午前7時までニューヨークが真っ暗になりました。
ハドソン川の変電所への落雷が直接的な原因で起こったニューヨークの大停電です。
で、です。
この結果どうなったかというと、ブロンクス中でDJがたくさん生まれました。
「なんで?」って感じですが、大停電は13日の午後9時から翌日の朝まで続いたのです。
この隙に、ブロンクスの皆さんは、DJの機材を片っ端から店に入って盗みまくったのです!
「買えないならパクればいいじゃねえか!」「ラッキー停電で電気屋入り放題だぜ!」「俺たちも今日からDJだ!」
多分そんなこと言いながら嬉しそうにDJの卵が生まれまくったことでしょう。
さすがはブロンクス!貧困街ならではの発想ですね!
というわけでニューヨークの機能が停止している最中に、ヒップホップミュージックのカルチャーは爆速で成長していきました。3人しかカリスマDJがいなかったのに、途端にブロンクス中でDJがパーティで様々な音楽を生み出す。
カルチャーの発展の仕方がヒップホップらしいというかなんというか、ツッコミどころ万歳で非常に素晴らしいです。
でもってバトル気質な彼らが技術を磨いていき、いかに優れた音楽を生み出すか競い合っていったわけで、そりゃ急激に音楽性も向上していったよって話です。
人々の思いやら気質やらがカルチャーと相性バッチリに噛み合って一気に盛り上がっていったわけですね。
ヒップホップと黒人の奴隷制
とんでも理由で盛り上がりを見せるヒップホップミュージックですが、その起源には悲しいルーツがあります。
荒廃した街で暴力と貧困に喘いでる時点で悲しいんですが、それ以前に話を遡ってみたいと。
ラップにはコール&レスポンスというものがあります。ステージ上でラッパーなりMCが客に向かって煽り、掛け声をしたらその掛け声を観客が返すというものです。
これはさっき紹介した3人の伝説DJたちの音楽を盛り上げるために仕事していたMCもやっていました。
このコール&レスポンスとは、じつはアフリカの民族間で使われていたコミュニケーションです。
そして、人類の負の側面、奴隷制。アフリカの黒人たちは奴隷として異国へ連れ去られ、辛い作業を強いられていたときに、作業を乗り切るために仲間たちとともに労働歌を作り、歌い、乗り切ってきました。
そのときに多用されたのがコール&レスポンスです。
つまり、ヒップホップミュージックには辛く過酷な奴隷制を乗り切るためのエッセンスが入っているのです。
コール&レスポンスという何気ないやり取りのルーツを知れば、いかにヒップホップミュージックが黒人音楽であり、そして黒人の音楽とはどのようにして生まれたのかを考えさせられます。
奴隷、貧困、暴力など過酷な背景から生まれたといえば、ヒップホップミュージックの捉え方が変わるかもしれません。
しかしそういった辛い背景があるからこそ、ヒップホップミュージックはただの表面的なチャラい音楽に留まらず、現在の音楽シーンでも中心として扱われるれっきとしたカルチャーに昇華されているのだと思います。
ラップ自体がメッセージ性に富み、なにかを伝えようとする側面も強いです。
メッセージとはそこに至るまでの想いがあるから生まれるものです。思いは過酷さや辛さ、重い側面があるからこそ、相手に深く伝わります。
負の側面を決して悲しむのではなく、負の側面を昇華しようと脈々と黒人たちが労働歌から受け継いできた音楽のカルチャーが現在にあるということを、知っておきたいです。